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三浦光紀の仕事Ⅱ
70年代のフォーク、ロック、ニューミュージックを陰で支え、
80年代の音楽シーンをもリードした
“伝説のプロデューサー”のアーカイヴ、第2弾!
「ゲバ棒持っても、就職したら会社人間」という輩が多かった団塊の世代にあって、三浦光紀は“本物の革命家”で、真の“自由人”だったと思う。早稲田大学のグリークラブで合唱に打ち込んだ彼は、学生時代からレコード会社のクラシック部に出入りしていた。そして、学芸・教養の部門では日本一のディレクターと謳われた長田暁二に憧れてキングレコードを受けて合格、1968年に長田の下(キングレコード教養課)に配属されたのだった。譜面が読めた三浦はすぐにレコーディングの現場を任されるようになり、教則レコードのひとつとして『フォーク・ギターの世界』を企画する。PPMフォロワーズを率いてすでに一時代を築いていた小室等と小林雄二によるこのアルバムを制作する過程で、小室の新バンド、六文銭がスタート。現代詩にオリジナル曲をつけ、プロテスト・ソング中心だった関西フォークとは違う流れをつくろうとしていた小室に感化された三浦は、71年にフォーク専門のレーベル「NEWS」を旗揚げし、小室の初ソロ・アルバム『私は月には行かないだろう』や、高田渡の『ごあいさつ』を制作するとともに、はっぴいえんどのURC音源のシングル化を推進、大瀧詠一のソロ・シングルをプロデュースするようにもなった。
そんな中、事件が起こる。上條恒彦と六文銭のコラボ曲「出発の歌」が71年10月の世界歌謡祭でグランプリに輝き、まさかの国民的ヒットになったのである。この活況がキングの上層部を動かし、72年4月に三浦を中心としたレーベル「ベルウッド」が誕生。六文銭、高田渡、あがた森魚、山平和彦、西岡恭蔵、ディランⅡ、はっぴいえんど、南正人、はちみつぱいらが集結したベルウッドは、URCとエレックに対抗する“メジャー初のフォーク/ロック・レーベル”として注目された。やがて、「フォークでもロックでもない新しい音楽を」という三浦の提唱から“ニューミュージック”を標榜するようになり、歴史的名盤を次々に発表するのだ。
しかし“非メジャー”を信条とする三浦は74年にベルウッドを離れ、翌年、フィリップスに新設されたニューミュージック部門のチーフとなった。ベルウッドからの移籍組と、矢野顕子、喜納昌吉、桑名晴子といった新しいスターが同居したフィリップスの三浦レーベルは、「ベルウッドよりベルウッド的なレーベル」と評され、またも名盤の宝庫となる。三浦は75年に誕生したフォーライフ・レコード(小室等、吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水が設立)を陰でバックアップしながら独自のレコード制作を続け、80年には徳間ジャパンの制作部長に就任。ここでは、ベルウッド~フィリップス系のヴェテランの面倒を見ながら、パンク/ニュー・ウェイヴ勢にも協力し、「反(アンチ)はいつか主流になるかもしれないが、非は永遠に非」という信念を地で行く過激なレコード制作を続けたのだった。
昨年の「キング~ベルウッド編」に続く三浦光紀ワークスの第2弾は、フィリップス~徳間ジャパン時代の彼の仕事に、会社の枠を超えてディレクターを務めていたフォーライフ時代の小室等のアルバムを加えたアーカイヴである。フォーク、ロック、ニューミュージックの時代を駆け抜けた三浦が、80年代の非主流をどう捉えていたかを探るのも一興だと思う。
音楽に熱いメッセージがこめられていた時代の文化遺産として、これらの作品に再びスポットがあたることに期待したい。
和久井光司
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喜納昌吉&チャンプルーズ
BLOOD LIN
80年にハワイで録音されたセカンド・アルバム。のちに大ヒットする「花」のオリジナル・ヴァージョン(すべての人の心に花を)を収録していることでも知られる。細野晴臣、久保田真琴、ライ・クーダーらが参加。“ウチナー・ポップ”を世界に知らしめた名作だ。
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あがた森魚
君のことすきなんだ
77年8月発表。本人の意向を無視したジャケットが過渡期の混乱を示す問題作。プロデューサー矢野誠のシンセを多用したアレンジにも、ティン・パン・アレイがYMOに移行していく時期の過剰な先鋭が見える。早川義夫「サルビアの花」のカヴァーは一聴の価値あり。
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桑名晴子
Show me your smile
79年5月に発表されたセカンド・アルバム。 ソー・バッド・レビューとスターキング・デリシャスの残党で結成されたベーカーズ・ショップをバックに、前作以上に伸びのあるヴォーカルを聴かせる名作だ。デパートのCM曲「もっとイマジネーション」はここに収録。
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桑名晴子
HOT LINE
ベーカーズ・ショップをフィーチャーしているが、実質的には桑名晴子のサード・アルバムと言っていい、80年の作。前作でのコラボレイションを発展させつつ、フュージョンの波にも乗ろうとしたかのようなしたたかなアルバムだが、いま聴けば堂々たる浪花のソウル。
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矢野顕子
JAPANESE GIRL
76年7月に発表されたデビュー・アルバム。彼女は当時21歳だった。LPのA面は、リトル・フィートの面々とのLA録音、B面は、細野晴臣、林立夫、鈴木慶一らとの東京録音である。作詞、作曲、ヴォーカル、ピアノとも現在とあまり変わらない早熟ぶりに脱帽の傑作。
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矢野顕子
長月 神無月
前作から僅か5ヶ月というインターバルでリリースされたセカンド・アルバムは、実力の高さを伝えるライヴ録音。全12曲中10曲が、誰もが知る童謡や唱歌という選曲は、独特な節まわしが他の追随を許さない、ワン・アンド・オンリーのシンガーであることを伝えている。
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矢野顕子
いろはにこんぺいとう
77年8月発表のサード・アルバム。小坂忠で知られる「ほうろう」、細野晴臣の「相合傘」といったカヴァーも秀逸だが、白眉はヴォーカルのフェイクに圧倒的な個性が見える「いろはにこんぺいとう」と、当時の巨人軍の打順を歌詞にした「行け柳田」か。これも傑作だ。
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矢野顕子
ト・キ・メ・キ
77年9月リリース。プログラミングを松武秀樹とロジャー・パウエル(トッド・ラングレンのバンド、ユートピアの鍵盤奏者)が担当、シンセとコンピューターを活用したレコーディングが試みられた。YMOより前にこんなアルバムをつくったのはアッコちゃんだけだ。
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矢野顕子
東京は夜の7時
79年4月リリースの通算5枚目は、『長月・神無月』に続いてのライヴ・アルバム。坂本龍一、細野晴臣、高橋ユキヒロ、松原正樹、浜口茂外也、山下達郎、吉田美奈子によるバンドの演奏は文句なしだし、どこまでも自分を解放するようなヴォーカルとピアノも素晴らしい。
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小室 等
明日
フォーライフレコードが誕生してからも三浦光紀は会社の枠を超えて、小室をディレクションし続けた。移籍第一弾である75年11月発表の本作は、泉谷しげるの「国旗はためく下に」を取り上げるなど、意欲的な作品。ボーナス・トラックとして、「雨が空から降れば(LIVE Ver.1977)」を収録。
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小室 等
いま 生きているということ
76年9月発表。全作詞:谷川俊太郎、作曲:小室等による最初のアルバムは、小室の最高傑作との呼び声もある。TBSドラマ『高原へいらっしゃい』の主題歌としてヒットした「お早うの朝」を収録。ムーンライダーズの面々、矢野顕子らが参加している。ボーナス・トラックは「ユイコムロ(LIVE Ver.1977)」。
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小室 等
父の歌
前作に続く谷川俊太郎とのコラボ作品。松崎しげるが唄ったドラマ『俺たちの朝』主題歌のセルフ・カヴァーも収録したアルバムは、77年8月発表。前作と次作に挟まれては地味な印象だが、味わい深い佳作である。矢野顕子、高中正義らが参加。ボーナス・トラックは「東京(LIVE Ver.1977)」。
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小室 等
プロテストソング
78年10月リリース。全曲の作詞を谷川俊太郎に任せたプロテスト・ソング集なんてものを出せるのは小室等だけだろう。編曲とピアノは佐藤允彦。高水健司(b)、田中清司(dr)のリズム・セクションの好演も見逃せない。ボーナス・トラックは「12階建てのバス(LIVE Ver.1977)」。
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小室 等
長い夢
79年10月から12月にかけてレコーディングされた、70年代と80年代を繋ぐアルバム。久しぶりに自ら作詞した曲が多いのと、井上陽水と共作した「Kiss」や、エリック・アンダーソン「おいでよぼくのベッドに」のカヴァーなどにも注目だ。ボーナス・トラックとして、FM東京『小室等の音楽夜話』のテーマ曲(3タイプ)を収録。